「犬が悪いことをしたら叱ってもいいですか?」という質問を、飼い主さんからよく受けます。「悪いことをしたら叱らないといけないと思っていたけど、最近は叱ってはいけないという話も聞いて、どうすればいいかわからなくなって……」という戸惑いの声です。
「叱る必要はない」と言葉で言うのは簡単ですが、大切なのは、「叱る」を通じてその人が何をしようとしているのかを冷静に見極めることです。「叱る」という行為を通じて、人が実現しようとしている機能は何なのでしょうか?
この疑問に答えるために、まず「叱る」という言葉の中身を整理しておく必要があります。なぜなら、「叱る」という一言の中に、まったく性質の異なる二つの行為が混在しているからです。
「叱る」と「止める」——同じようで、まったく違う
叱るとは、あえて犬に不快感を与えることによって、行動をコントロールしようとすることです。怒鳴る、脅す、体罰を与えるといった行為がこれにあたります。特定の行動のあとに嫌悪刺激を提示することは行動の減少につながる場合はありますが、条件により意図通りに成立しないことも少なくありません。
止めるとは、不適切な行動を抑止することです。感情は関係ありません。犬を危険から守る、あるいは問題となる行動をその場で中断させるための介入です。問題となる行動を止めることができれば、「止める」という介入は成立します。仮に叱っていても止められなければ、その叱りは目的をはたしていないといえます。
この二つは、目的も方法も、犬に与える影響もまったく異なります。「叱らないようにしましょう」というのは、「何もしないでください」「放任してください」ということではありません。危険な場面では、しっかりと止めることが必要です。ただ、それは「叱る」こととは別の話なのです。
なぜ「叱る」はうまくいかないのか——3つの理由
では、叱ることがなぜ問題なのか。行動診療の現場での経験を踏まえながら、3つの理由をお伝えします。
①タイミングがずれると、まったく別のことを学習してしまう
犬は、自分の行動とその結果を結びつけて学習します。ただし、その時間的なウィンドウは非常に短く、ほんの数秒以内の出来事しか関連づけることができません。
よく耳にするのが、「留守番中にイタズラをしていたので、帰宅後に叱った」という話です。でも、帰宅後に叱っても、犬はすでに数時間前の自分の行動などとっくに忘れています。犬が学習するのは、「帰ってきた飼い主が、なぜか怒っている」という事実だけです。
結果として、「飼い主が帰宅すると嫌なことが起こる」という学習が成立してしまいます。イタズラを直したくて叱ったはずが、帰宅するたびに犬が緊張したり、怯えたりする状況を、飼い主自身がつくり出してしまうのです。
②「飼い主は怖い存在」という学習をさせてしまう
叱られる経験が積み重なると、犬の中に「この人のそばにいると嫌なことが起こる」という学習が定着していきます。信頼関係の土台が少しずつ崩れていきます。
そうなると、飼い主が近づくだけで犬が緊張したり、目を合わせなくなったり、距離を置こうとするようになります。「なんだか最近、よそよそしくなった」と感じる飼い主さんのお話を聞くと、日常的に強く叱ってきたというケースが少なくありません。
犬は、「一緒にいると楽しい、安心できる」と感じる相手の言葉には耳を傾けます。でも、「怖い」と感じている相手の言葉は、ただの恐怖のシグナルでしかなくなります。叱ることで言うことを聞かせようとすればするほど、肝心のコミュニケーションの土台が壊れていく——これが、叱ることの最大の問題点です。
③問題行動を直そうとして、新たな問題行動を生み出してしまう
叱られる経験が重なると、犬はやがて防衛的な行動をとるようになります。叱るだけでも対立的な関係が生まれ、防衛的な態度は大きくなりますが、たたくなどの体罰を行っていれば、人の手を怖がるようになることもあります。恐怖心や防衛が強くなると、テーブルの下やベッドの下に隠れるようになったり、近づくだけで唸る、通りかかると咬むといった行動が生じるようになります。——こうした反応は、「突然攻撃的になった」のではなく、恐怖や不安が積み重なった末の、犬なりの防衛手段です。
問題行動を叱って直そうとしたはずが、別の、より深刻な問題行動をつくり出してしまう。行動診療の現場では、こうした悪循環が起きているケースに日々直面します。
「止める」ことは、保護の行為
一方で、止めることは別の話です。道路への飛び出し、他の人や犬への危険な行動、そういった場面では、瞬時に行動を中断させることが必要です。それは感情的に怒鳴ることではなく、犬を危険から守るための介入です。
ここで大切にしてほしい視点があります。
飼い主の役割は、「言うことを聞かせること」ではなく、「犬が安全に、安心して暮らせるようにすること」です。
危険な場面で止めるのは、「ダメと教えるため」ではなく、「犬を守るため」です。感情ではなく、保護の意識で動く。この姿勢の違いが、犬に伝わるものをまったく変えます。
そして止めた後には、「代わりにどうしてほしいか」を伝え、それができたらしっかり褒める。この流れが、止めることを「教える行為」にする上で欠かせません。止めるだけで終わっては、犬はどうすればよかったのかを学べません。
問題行動には、必ず「理由」がある
最後に、もっとも大切なことをお伝えします。
犬は、理由なく困った行動をするわけではありません。吠える、噛む、破壊する——こうした行動には、必ず犬なりの理由があります。退屈、運動不足、恐怖、不安、社会化の不足……行動の裏には、必ず犬のニーズや背景があります。
だからこそ、「叱って止める」だけでは根本的な解決になりません。「なぜこの行動が起きているのか」——その理由を理解して、理由そのものをなくしていくことが、本当の意味での改善につながります。
例えば、恐怖から吠えているなら、恐怖の対象に少しずつ慣らしていく(脱感作)アプローチが必要です。退屈から物を破壊しているなら、運動量を増やしたり、環境を豊かにしたりすることが先決です。叱っても、その理由が消えない限り、行動は形を変えて繰り返されます。
「どうしてこの行動が起きているのだろう?」という問いを持つことが、飼い主と犬の関係をより豊かにする第一歩です。もし理由がわからない、対応に迷うという場合は、行動診療を専門とする獣医師や、資格を持ったトレーナーに相談することも、ぜひ選択肢に入れてみてください。
叱ってコントロールする関係ではなく、「この人といると安心できる」と犬に感じてもらえる関係を。その積み重ねが、ともに安心して暮らせる毎日をつくっていきます。

