看取るとは?

 日本人にとって「看取り」とは、単に「死に立ち会う」ことを指すわけではなく、命の最期を尊重し、静かに寄り添うことに深い意味を持っています。これは、人生を一緒に振り返り、生きた証を心に刻みながら、故人をこの世からあの世へと送り出す大切な時間と考えられています。

 この考え方には、古くからの日本文化、とくに仏教と神道の影響が大きく関わっています。仏教においては、すべてのものは移り変わり、変わらないものはないという「無常」の教えが根本にあります。そして、生きとし生けるものは、死んだ後も生まれ変わりを繰り返すという「輪廻」という考え方があります。

 元々のインド仏教では「一切皆苦」つまり、生きること自体が苦であると教えており、輪廻することは、生という苦しみの連鎖から逃れられない状態を指しています。そのため輪廻から抜け出し解脱を目指す事が良いことととらえられてきました。

 一方で日本では、仏教以前に神道の考え方がベースにあり「死後は、霊魂となって、生者を見守る」という感覚がありました。そのため輪廻での生まれ変わりについても、それが苦しいもの、逃れなければならないものという感覚が薄まり、悪いことをすれば地獄に落ちる、良いことをすれば極楽浄土に行けるといった因果応報の輪廻観が広まりました。

 このような文化的背景から、日本人にとって看取りとは、故人にとって、輪廻の始まりであり、次のステージへの旅立ちの時ととらえられてきました。そのため、家族や親しい人たちに囲まれて穏やかに死を迎えることで、心安らかに送り出すことは、今生の業をできるだけ軽くし、良い生まれ変わりへと導くという意味合いもあります。

 しかしながら、現代の日本においては、病院や施設で亡くなることが当たり前となっています。医療技術が発展し、延命処置を行うことが当たり前になったことや、核家族化が進行し高齢の親を介護できる状態でなくなっていることなどが影響しています。現代社会の中で致し方ないことではあるかもしれませんが、病院や施設での死は、日本の伝統的な「家族に見守られながら、穏やかに死を迎える」という看取りとは、大きなズレがあります。また、死を迎えるという行為が、病院や施設に分業化されてしまったことは、人々が死とどのように向き合っていくかを考え体験する場の喪失につながっています。元々日本には、神道的な感覚として、死を穢れとして遠ざけようとする感覚がありました。死を見たくないと思うのは日本の伝統的な感覚なのかもしれません。しかし、現代の日本では、死を見届けると言う経験からあまりにも離れすぎており、それが、死と適度な距離感で付き合うことを難しくしている面があると感じます。

 そうした背景の中、『はじめての家族の死』に直面する機会が、動物との別れであったという人は少なくないと思います。犬や猫は長くても寿命は20年ほど。人間よりも先に死ぬことが圧倒的に多いです。また、動物たちの場合、病院で亡くなることよりも、家庭で亡くなることの方が多いでしょう。動物たちは、自らの生と死を通じて、私たちに様々なことを教えてくれています。しかし、死が遠くなったことで、私たちのほうが、死の過程を受け入れられなくなっている面もあるかもしれません。

 延命治療への向き合い方は、死への向き合い方と直結しています。人の医療現場にしろ、獣医療の現場にしろ「死」は敗北と捉えることが少なからずあります。突然の事故での怪我や、若くして急性の疾患で亡くなる場合は、出来得る限りの処置をして生かそうということは絶対に必要なことでしょう。一方で、既に高齢になり、慢性の疾患が悪化するなどして、死に近づいている時、死は生の最終盤に続く次のステージと捉えることができます。認知症を発症し、だんだんと認知機能が衰え、分からなくなっていくことも、死にゆく過程の一つです。そうした状況になった時に、殊更に死を避けるための延命治療は必要なく、死を受け入れ、穏やかな最期を迎えさせてあげることも、一つの愛情の形かもしれません。

 ほどんどの動物たちは、人間より先に死にます。その最後をどのように迎えさせてあげたいか、どのように看取りたいのかということは、元気なうちから、真剣に考えておいてあげたいですね。