『漢方薬』という選択肢も
人の認知症治療では、漢方薬は重要な選択肢の一つになっています。犬の認知症の治療ではまだまだ実例に乏しいのですが、私自身は臨床で使用している中で効果を実感しています。
人の認知症の症状は、大きく記憶障害や実行機能の障害といった中核症状と、認知症の行動・心理症状(BPSD:behavioral and psychological symptoms of dementia)に分けられます。BPSDには、身体的攻撃性、鋭く叫びたてる、不穏、焦燥、徘徊、文化的に不適切な行動、性的脱抑制、収集癖、罵る、付きまとうなどの行動症状と、不安、抑うつ気分、幻覚、妄想などの心理症状が含まれます。これらの症状は、犬の認知症の症状と類似した症状と言えます。
人の認知症における、BPSDの治療については、向精神薬の他、近年、漢方薬の抑肝散の効果が注目されています。抑肝散とは、柴胡、甘草、蒼朮、茯苓、 当帰、川芎、釣藤鈎の7種の生薬からなる方剤で、元々は、こどもの夜泣きや癇癪に使用されてきた漢方薬です。その名の通り、「肝の高ぶり」を「抑える」働きがあるとされます。「肝の高ぶり」とは「肝に触る」の「肝」であり、怒りを意味しています。
主薬は釣藤鈎で、中枢性の鎮静・鎮痙・催眠作用を持つとされ 、生薬単体でもランダム化比較試験によって、認知症患者の認知機能と日常生活動作の改善作用を有することが確認されています。動物実験においては、ラットにおける攻撃行動の抑制作用や、マウスにおいてセロトニン代謝に影響を与えることが確認されています。
私自身、臨床では、犬の認知症で特に攻撃や吠えが強くなっている症例には、抑肝散や抑肝散に陳皮半夏を加えた抑肝散加陳皮半夏を使用することが多いです。単独で使用したり、抗うつ薬や睡眠薬と併用して使用しており、攻撃性の抑制や睡眠状態の改善の効果を実感しています。抑肝散を使うと穏やかな表情になり、すやすや寝てくれることが多くなったと言うような感想を聞くことが多いです。
漢方薬は体に優しいというイメージはありますが、抑肝散も抗うつ薬や睡眠薬同様に嘔吐、食欲不振、下痢などの副作用が発現することがあります。漢方薬だからといって、副作用がないという誤解は禁物です。一般の薬と同様に、慎重に使用する必要があることに変わりはありません。また漢方薬は、本来、漢方医学(中医学)の『四診』による診断の元で処方しなければなりません。認知症=抑肝散という単純化は出来ず、認知症の症状があっても、犬の体質や体と精神の全体状態・症状を総合的に診て、処方する方剤を選択する必要があります。
抑肝散は興奮しやすい、怒りやすい、イライラしている、気が短くてじっとしていられない、眠れないというような症状に用いる方剤です。同じ犬の認知症症状だからと言って、ぼーっとしていることが多い、ぐるぐる回転して歩き回るという症状だけだと、抑肝散の適用とは考えにくいでしょう。認知症症状に加えて、尿失禁がある、後ろ足が立たなくなってきたという症状であれば、八味地黄丸の方がより合っていると考えられます。このあたりの方剤の選択は、漢方薬に詳しい先生に相談されることをお勧めします。
人の認知症に対する漢方薬の使用では、抑肝散の他、釣藤散、八味地黄丸、当帰芍薬散などが症状に応じて用いられており、研究が進んでいます。犬でも体質や症状に合わせて使い分けが必要とは考えられますが、まだまだ情報が少ないのが現状です。今後、犬の認知症に対する漢方薬の使用実績が積みあがっていくことで、より的確な方剤の選択が可能になってくることを期待しています。
漢方医学の正気を補うという考え方
漢方薬の使用に関連して、漢方医学の重要な考え方である『扶正袪邪(ふせいきょじゃ)』についてご説明したいと思います。漢方では、病気は、単純に病因となるストレス(暑さ寒さ、心理的ストレス、ウイルス感染、腫瘍の発生など)を受けたことによってのみ発生するとは考えません。病因となるストレスに合わせ、元々の身体の持つエネルギーである正気が弱まることで、病気となると考えます。
過酷な環境下で過酷な労働をしても、病気にならない人もいますが、そうした人は正気が充実しているため、外的なストレスがあっても病気にならないと考えるわけです。病気になった時には、病因となるストレス=邪気を取り除くと共に、身体エネルギーである正気を補うことで、病気の治療を行います。「扶正」とは、正気の働きを助けることを指し、「袪邪」とは、邪気を取り除くことを指します。
さて、西洋医学の治療は、主に「袪邪」であり、問題を発生させている部分を取り除くことに主眼が置かれています。感染症であれば、細菌の繁殖を抑えるために抗生剤を使用したり、ウイルスの増殖を抑えるために抗ウイルス薬を用いますし、腫瘍であれば手術によって病巣を取り除いたり、放射線や化学療法で腫瘍細胞を死滅させます。その他の疾患についても、問題となっている部分を修正するための治療が中心です。
漢方の考え方では、高齢動物の疾患では特に、邪気の侵入よりも、正気の衰えによって生じることが多いと考えられています。正気は年を重ねるにつれ衰えていくため、邪気に対する抵抗力が弱まり病気になりやすくなります。正気が減ってきた状態を衰えと捉えますので、年齢=衰えの程度ということではなく、当然そこには個体差が生じます。若さや老いは年齢の数字ではなく、その個体の状態で決まるってことですね。老い衰えが進めば、邪気に侵されなくても、様々な身体的な症状が生じてきます。認知症についても、腎虚や脾気虚と呼ばれる正気の衰退がその主な原因と考えられています(瘀血や肝鬱といった病邪も関係しますが、専門的な話になるので省きます)。そして、正気が無くなることで、動物が生命活動を維持する働きが失われ、老衰による死が訪れます。
ここで重要なことは、漢方医学では、西洋医学が不得意な『正気を補う』ための治療を得意としているということです。人参養栄湯、十全大補湯、補中益気湯、八味地黄丸等が代表的な補剤で、人の医療では、高齢者領域の内科治療や、手術後や病後などの消耗時に用いられています。高齢動物の様々な症状は、正気が衰えることによって生じているものが少なくなりません。悪いところを取り除く、悪いところを修正するという考えだけでなく、正しい身体の働きをサポートするという部分に力を入れることは、身体のバランスを整え、動物のQOLを向上させることにつながります。認知症をはじめとした高齢動物の治療においては、漢方薬の利用という選択肢を持っておくことは、重要な意味があるでしょう。
正気を補うサプリメント
認知症の治療にサプリメントを用いることもあります。サプリメントは、脳の老化や酸化ストレス、神経伝達の低下を緩和し、行動症状の進行を遅らせることを目的に使用されます。
漢方では、正気が失われた状態で身体の機能に不調が生じている状態を虚証と言います。虚証は、身体の生命エネルギー(気)が不足した『気虚』、身体の物質(血)が不足した『血虚』、身体の体液・潤い(陰)が不足した陰虚に分けられます。認知症に用いられる漢方薬は様々な生薬の作用により、生命エネルギーを補ったり、気の巡りを良くしたり、不足している物質(血)を補ったりすることで、その症状を緩和していくと考えられています。
サプリメントも、漢方の考え方に則るとその作用が分かりやすいと思います。つまり、足りなくなった正気を補っていくことで、認知症症状を緩和したり、症状の悪化を予防したりできる可能性があるということです。
抗酸化物質(ビタミンE、ビタミンC、セレン、ポリフェノールなど)は、脳内で発生する活性酸素を中和し、神経細胞の損傷を防ぐ働きがあるとされています。加齢に伴い低下する抗酸化システムを補うことは、記憶力や学習能力の維持に役立つと考えられています。オメガ3脂肪酸(DHA・EPA)は神経細胞膜の構成成分として重要で、情報伝達の効率を高める作用があります。これにより、注意力や反応の改善が期待されます。中鎖脂肪酸(MCTオイル)は、脳にとって代替エネルギー源となるケトン体を生成し、エネルギー利用が低下した高齢犬の脳機能を補助する効果が注目されています。これらの成分はいずれも、低下した脳の働きを補うことで、効果を発揮することが期待できます。
そのほか、ホスファチジルセリンやイチョウ葉エキスといった神経機能をサポートする成分も用いられており、神経伝達物質の働きを助けることで、不安や混乱の軽減に役立つ可能性があります。
アクティベート(ワールドエクイプス)は、DHA、ビタミンE、ビタミンC、α-リポ酸、セレニウム、コエンザイムQ10、ホスファチジルセリンが含まれ、認知症症状を改善することが期待できます。アクティベートを認知症を発症した犬に投与した研究では、治療群はプラセボ群に比べて、投与開始21・28・42日時点で、見当識障害、社会的交流の変化、トイレ失敗に関して、有意な改善を示したことが報告されています。また、投与中止後に症状が再燃する傾向も報告され、アクティベートによる栄養成分の補給が症状の改善に役に立っていたと考えられます。
とはいえ、認知症の症状の進行状況や、犬の体質によって、必ず治療効果が得られるわけではないので、その点は注意が必要です。獣医師のアドバイスを受けながら利用する必要があります。
心を落ち着かせ、眠りを誘導するサプリメント
正常な機能を補うサプリメントの他に、心を落ち着かせたり、眠りを誘導することを目的に使われるサプリメントもあります。
犬の問題行動のサポートの場面では、ミルク由来の成分であるカゼインを加水分解して得られるペプチド『α-カソゼピン』を有効成分としたサプリメントがよく使われます。α-カソゼピンは、脳の興奮を抑制するGABA(ギャバ)受容体に作用して、動物の不安やストレスを和らげる効果があります。脳の興奮を抑えるため、眠りやすくする作用もあります。寝る前にホットミルクを飲むと落ち着くイメージですね。
α-カソゼピンを有効成分としたサプリメントでは、ジルケーン(ベトキノールジャパン)がよく知られています。また、α-カソゼピンを主体としながら、抗ストレス・睡眠の質向上に伝統的に用いられてきた南アフリカ原産のカンナ(スケレティウム・トルツオーサム)という植物から抽出されるゼンブリンなどの有効成分が配合されているDuo One Vets Relax(メニワン)も眠りを誘導することが期待できるサプリメントです。
高齢犬の場合、内臓の代謝も落ちていることがよくあります。向精神薬を使うのはちょっと心配という方や、まだ薬を使うほど深刻ではないけど使えるものがあれば試してみたいという方はサプリメントから開始するのも良いでしょう。