動物の精神科医こと奥田です。

2018年1月に放送されたNHKのプロフェッショナルを皮切りに起こった体罰問題。結論は見えぬまま、2018年も終わろうとしています。私も体罰は是か非かというテーマで、愛犬雑誌WANに2019年1月号から寄稿させていただいていますので、是非そちらもご覧ください(って宣伝になってるけどね)。

WANで展開したお話というのを要約すると、まず、体罰というのは、「訓練の罰として用いられる嫌悪刺激で、肉体的精神的に過度な外傷を負わせるもの(奥田の定義。検討の余地あり)」ではないかと定義しました。(注1)過度なとは、メリットをデメリットが上回ることで、例えば、子犬が遊び咬みをしているにも関わらず、馬乗りになって叱責して、そのご触ろうとすると唸るようになったというのは、メリットがなくデメリットばかりの状況です。一方、安楽殺か罰による行動修正かを選ぶ場合、罰による行動修正でも安楽殺するよりはいいよねって場面では、犬にかかるある程度の負担は許容すべきと思います。首輪を持てない犬の首輪を持てるようにする消去のトレーニングでは、首輪を握った時に悲鳴を上げる場合があるし、咬みついてくる場合もあるけど、これは体罰に当たるのだろうか?という議論を展開しています。

(注1)facebookの奥田のタイムラインで、体罰についてどのように定義するかというダイアローグがありました。議論の結果、動物の行動修正や訓練を目的とした嫌悪刺激を用いる行為であって、その行為によって動物に直接的に身体的・精神的な傷害を負わせ、将来的な心身の健康を保つための生きる力を害する行為(注記:嫌悪刺激を用いる場合は、嫌悪刺激を用いる以外の行動修正で、その動物の置かれた状況で現実的に実施可能な方法を厳密に検討することが前提)という表現に、今のところ落ち着いています。

そして体罰問題の本質として、体罰は是か非かの二元論に陥ることで、飼い主を救うという目的が二の次になっていることが問題だと指摘しました。体罰肯定派も体罰否定派も、互いに互いの論理を理解しようとしているのか?咬む犬を改善するという同じ目的に立つのであれば、互いに情報を学び合えば、より良いものができるのではないか?ということを指摘しています。

問題解決が問題を生み出す?

今、社会変革のためのシステム思考という本を読んでます。この中に、社会問題を解決しようとして、より社会問題を悪化させる例が出てきます。例えば、「犯罪を抑制したいという意図から行われる、犯罪者に対する厳しい実刑判決は、再犯率を高め、社会不安を高める」などです。
https://www.change-agent.jp/news/archives/001186.html

犬に関して身近な問題では、「吠えている犬を静かにさせようとして、オヤツを与えたら、より吠えるようになった」ということも、静かにさせようという意図で与えたオヤツが、吠えを強化する結果になっています。

攻撃行動でいえば、「犬を怒らせないように、犬の嫌な事を避けていたら、犬が牙を見せれば・唸れば、飼い主が言うことを聞くということを学習し、余計に唸るようになった」ということも、飼い主の意図と逆の結果を招いてしまっています。

体罰問題も実はこれと似た構造があるのではないかと思います。つまり、犬の攻撃行動による問題を減らしたい、犬たちを守りたいという目的を持って、体罰に反対する。そうした意見を発信することで、逆に体罰肯定派の意見が強まり、互いが対立構造となってしまう。双方の手法の間違いや欠点を指摘しあう形となって、どの情報が自分にとって有益な情報であるか判断できない飼い主にとって、より混乱を招く結果となり、犬の攻撃行動による問題を減らしたい、犬たちを守りたいという意図を達成できない。というストーリーです。

体罰問題の第三案

自己啓発の大家「7つの習慣」、「第八の習慣」には、第三案を探求するという概念が出てきあます。二つの対立した意見があるとき、その対立は歓迎すべきであり、A案でもB案でもない、双方が納得し、且つより有益なC案が見つかる可能性があり、そのC案=第三案を探求する姿勢が必要だという指摘です。WIN-LOSEではなく、LOSE-WINでもなく、WIN―WINを目指すというものです。

そして、WIN―WINを目指すために必要な原則としては、自分の言い分を理解してもらう前に、相手の言い分を理解するということが紹介されています。体罰問題について、体罰が是か非かという問題は、そもそも、攻撃行動の改善の場面でなされています。体罰肯定派も攻撃行動を修正するためにそれを行っており、体罰否定派も攻撃行動を改善するために指導し、体罰に対しての警鐘を鳴らしています。双方、自分の立場や見解を主張することはしているものの、相手の立場や主張を研究するということはあまり行っていないように思います。

私は、体罰否定派が多い、行動学系の専門家の中には、飼い主が非常に困難を強いられている攻撃行動の場面においても、動物の目線に立って、動物に負荷をかけないために、罰を使用することに拒否感がある人が多いのではないかと感じています。しかし、その家族・支援者が現実的に実施可能な選択肢が限られている中で、必要最低限の罰による行動修正を行うことは、長期的・あるいは一生続く、家族との関係性によるストレスを緩和し、むしろ人道的である場面もあるはずです。過度に罰を嫌ったり、犬にかかる負担を嫌ってしまうことで、あるいは、犬を怒らせない回避に徹することで、本来の目的である攻撃行動の改善が達成されないという事態になるかもしれません。

体罰肯定派の多い、訓練系の専門家の中には、不必要な場面で、人が犬の上に立つためというロジックから過剰な罰を使う人がいるのではないかと思います。過剰な罰が犬の恐怖心を増大し攻撃行動を悪化させることはやはりありますから、本来の目的である攻撃行動の改善が達成されないという事態になるかもしれません。また技術・知識のない飼い主に罰を用いた方法を推奨することは、不適切な罰の使用を助長し、多くの場合で関係の悪化につながります。

攻撃行動の改善には、これまで行ってきた行動を変えるわけですから、犬に対する一定の負荷はつきものであり、まったくの負荷なしに改善はできないと私は考えています。何かしらの負荷はかかるでしょう。もちろん、嫌悪刺激を用いない方法がことごとくうまく行かず、犬に負担のかかりやすい消去や罰を用いるべき場合も少なくないでしょう。

うまく行かないのは実施者のスキルが足りないからで、実施者のスキルのなさのために動物に負担をかけるべきではないというのは、まったくもって正論です。多くの支援者が、犬に負担のかからない方法をまず試していることと思います。しかし、複数の支援者の元でそうした方法に取り組んでも、改善せず、飼い主さんが困り果てることもあります。すごく技術の高いトレーナーさんに出会えないかもしれません。そしてその飼い主さんがそうした方に出会えなかったのは、技術の高いトレーナーさんの数がまだ足りていないからで、且つ、情報も(一般にも専門家にも)周知されていないからでしょう。

理想的にあらゆる資源を使えれば、話は違うかもしれません。飼い主さんの置かれた状況、犬の置かれた状況の中で、現実的に実施可能な方法が限られているのは仕方のない事実です。金銭的に、距離的に、受けられないサービスもあります。限られた選択肢の中で、犬に負担のかからない方法で改善しない場合、犬に負担のかかる方法を選択することは、体罰肯定派も体罰否定派もある程度納得することなのではないかと思います。

もしかしたら、体罰肯定派は、この文章を読んでこう思うかもしれません。
「攻撃行動の改善において、犬に負担のかからない方法を選択したいと思っている時点で現実的じゃない。現実的に咬む犬をなおすには、行動を変化させるわけだから、負担はつきもの。体罰否定派が犬にストレスのかからない方法を推奨することで、体罰否定派の意図せぬ結果として、犬に甘い、犬になんでも合わせる飼い主が増えてしまった。それによって攻撃行動が増えている」と。

もしかしたら、体罰否定派は、この文章を読んでこう思うかもしれません。
「攻撃行動の改善において、嫌悪刺激を用いない方法を検討せずに、体罰的な方法を用いることによって、攻撃行動を改善したいと思って用いた体罰的な方法が、動物に強い恐怖を与え、またそれを飼い主が真似ることによって、体罰肯定派の意図せぬ結果として攻撃行動を生み出している。行動修正のヒエラルキーをきちんと理解して、より人道的な方法を優先して実施しなければ、改善どころか悪化させるのが関の山。きちんと勉強してもらいたい。」と

おそらくは両者の言い分には、それぞれ真実が含まれています。両方の手法が、ともに実施者・普及者の意図せぬ結果を生み出していることも事実でしょう。双方が互いの主張を理解しようと努めることで、自分自身の盲点に気づくことができるかもしれません。そして、きっと、両者の一致点はあるし、相手の見解を食わず嫌いするのではなく、本気で理解しようとし、両者の一致点を探り、第三案を探求したら、今の自分の考えを超えて、攻撃行動に悩む飼い主さんにより良い支援ができるようになる可能性があると私は考えています。

飼い主を救うという目的を果たすために

互いを批判する投稿があることは事実ですし、両者ともやられたらやり返すという感情が無意識に働くことは自然なものだと思います。自分も大いに反省が必要だと思っています。特に体罰肯定派の方には謝罪したい(体罰を肯定するという意味ではなく)です。

相手のことをきちんと理解しない上での批判は、建設的な議論を生まないと思います。未来を考えた時、攻撃行動に悩む飼い主を救うためには、相手の意見を心から理解し、相手の意図を把握するように努めることで、第三案を探し、自分を改善していくということが、本当に必要な事であると思います。「体罰・訓練派」から見れば、「行動学・学術派」の言っていることは絵空事に見えるかもしれませんし、「行動学・学術派」から見れば、「体罰・訓練派」は知識のないステレオタイプに見えるかもしれません。

でも、攻撃行動に対応できる専門家が少ない中、互いを理解しようとせず拒絶するのは、互いにとって、そして困っている飼い主にとって損な選択のはず。互いをリスペクトして、高めあえる存在になる事が、互いの方法論の違いを理解し、安心して紹介しあえるネットワークを作ることが、攻撃行動改善の専門家である我々に求められている姿勢ではないでしょうか?

まずは、私自身、攻撃行動改善のために体罰を行っている訓練士さんの見解をしっかり理解できるように、FBのタイムラインなど少ない情報の中ですが、きちんとその意図をくみ取れるように勉強していきたいと思います。